ページの先頭 ここを読み飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 武田家の聖地

武田家の聖地

印刷ページ表示
公開日:2022年12月5日更新
<外部リンク>

大和景徳院武田勝頼信勝北条夫人の墓

景徳院 武田勝頼信勝北条夫人の墓

発祥から繁栄、そして滅亡まで、深い縁で結ばれた武田家と甲州市。
その夢を、思いを、今に伝える、神社、仏閣、数々の遺宝…
訪ね歩けば、息吹までが聞こえてくる。

甲斐国の信仰と文化の中心地

古くから甲斐国の信仰と、文化の中心として重要な役割を担ってきた甲州市。平安・鎌倉の時代から続く神社・仏閣には、甲斐源氏、そして甲斐武田家と深い縁を持つものも少なくありません。
平安末期、源平の戦いにおいて、当地から挙兵し、源氏の勝利に貢献した武将がいました。甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の孫にあたり、2代目当主義清の四男 安田義定(1134年〜1194年)です。その活躍ぶりは「平家物語」・「吾妻鏡」にも登場するほどで、鎌倉幕府の創建にも一役買ったと伝えられます。
北巨摩郡若神子に生まれた義定は、旧豪族・在庁官人の三枝一族をおさえて当地に入り、現在の山梨市小原に館を構え、笛吹川の上流地域から峡東一帯を治めていました。この義定が、一の谷の戦いの戦勝を記念して創建した「放光寺」は、当地における甲斐源氏の発祥の地とも言える場所。信玄が、自身のルーツにも深い関わりを持つこの寺を、武田家の祈願所とするのは、その400年ほども後のことです。
甲州市には、「於曽屋敷」「松尾神社」、武運長久の祈願寺とした「雲峰寺」など、甲斐源氏ゆかりの史跡が多く残されています。

戦いに明け暮れた戦国武将 信玄の心の拠り所

国宝 楯無鎧戦国武将として名高い武田信玄公は、清和源氏の流れをくむ甲斐源氏の嫡流 甲斐武田家の19代目の当主。天文10年(1541年)、父信虎を駿河へと追放し、若干20歳で家督を継ぐと、信濃や駿河などに領土を広げ、やがて天下を目指すようになります。その一方で、幼い頃から、母 大井夫人が招いた岐秀元伯和尚に「孫子」を学び、文学や宗教にも強い関心を抱いて育ったと伝えられる信玄は、修行道場屈指の名僧を甲斐に招き、最高の知識を学んで自己修練を重ねるとともに、向嶽寺に壁書を与えて学問を奨励したり、熊野神社を修復したり、恵林寺を自らの菩提寺、雲峰寺・菅田天神社を武運長久の祈願所と定めたりと、古くからの神社・仏閣の保護にも努めました。
新羅三郎義光より受け継がれてきた家宝であり、武田家代々の家督の印とされた「楯無鎧(たてなしのよろい)」は、甲府の鬼門鎮護として信玄の手によって菅田天神社に納められたと言われます。

再起を誓う勝頼が、最期に目指した場所は…

雲峰寺所蔵戦国時代に生まれ、天下を目指した信玄は、その生涯を通して数々の死闘を繰り広げました。
常に死と隣り合わせにある日々のなか、信玄の心を癒したのは信仰であり、先祖代々ゆかりのある甲州市の神社仏閣は、心の拠り所となっていたのではないかと思われます。
信玄の死後、家督を継いだ勝頼は、天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗すると著しく勢力を失っていきます。天正10年(1582年)3月、連合軍侵攻の知らせを受けた勝頼は、新府(韮崎市)の居城に自ら火を放ち、再起を期して岩殿城(大月市)を目指しますが、味方に裏切られ、ついには田野の地で嫡男信勝や家臣とともに自決。甲斐武田家嫡流の血は、甲州の地で絶えることとなりました。しかし、武田軍の陣頭に掲げられた、信玄直筆と言われる「諏訪神号旗(すわじんごうき)」と、風林火山の旗とも言われる「孫子の旗」、さらには後冷泉天皇から下賜されたという日本最古の「日の丸御旗(ひのまるのみはた)」といった武田家代々の家宝は、家臣の手によって、甲斐源氏の祈願寺であり信玄の父信虎によって再興された雲峰寺に納められており、戦国を駆け抜けた信玄・勝頼親子の熱く激しい想いを今に伝えています。